法学入門の「にゅ」(第3回:「法律一般②」~法学部生は普段なにを学んでいるのか~)

 
こんにちは。私です。
 
 
今回は,法律一般②ということで,法学部生という人間はどのような勉強をしているのかについて書いていきたいと思います。
今回の記事の内容を体得した人は,その辺の法学部生よりも法律ができるようになったと言っても過言ではない(!)でしょう(とキッパリ言えたらカッコいいのですが…)。
 
少なくとも,今回の内容を理解している人は,わざわざ法学部で勉強する必要はないと思います。後は,体得したものを使って,有名な先生が書いている入門書なり,概説書なりを独学で読み進めることで,法律を自分のものにできると思います。
今回の記事の内容はすべて赤でマークしたいくらい大切な事柄なので,ゆっくりと噛みしめるように読み進めていただけると嬉しいです。
 
 
…ということで,法学部生は普段どのような勉強をしているのでしょうか。
 
その答えを先出しすると,次の①〜④を,法学部生は一生懸命学んでいます。
 
①法律学のうち,主に法解釈学を学ぶこと*1
②法律には「要件」と「効果」というものが書いてあるのですが,これらを「解釈」すること
③「解釈」の手法にはいくつかの方法があるので,これを学ぶこと
④「解釈」した法律の条文を,生の事件(事実の集合体)に「適用」し,事件を「要件」「効果」にしたがって解決する方法を学ぶこと(これをあてはめ」といいます。実際は,現実世界で発生した訴訟事件に対して,裁判所がどのように法律を「あてはめ」て判決をくだしたのかについて学んでいます*2。)
 
 
以下,ある【事件】を交えて詳しく書いていきたいと思います。
 
【事件】
買主Cさんは,駅前で理髪店を開くために,地主である売主Dさんと甲土地の売買契約を締結しました。その際に,Cさんは,Dさんに手付金を交付し,土地の代金は後日支払うことにしました。その後,Cさんは土地代を用意するために銀行からお金を借りて手元に置いていつでも支払いができるように準備をしました。しかし,その後,代金支払期日がくる前に,他に安くていい乙土地が見つかったため,CさんはDさんとの契約を民法557条1項に基づき解除して,乙土地の購入を検討したいと考えるに至りました。
 
【問い】
CさんはDさんとの売買契約を解除することができるでしょうか。
 
参考:民法557条1項「買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手するまでは買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して、契約の解除をすることができる。」
 
 
①法解釈学について
 
法律は,強制力*3をもったルールであり,社会をよりよくするための1つの手段です。そして,法律は,現実の事件に適用され,法律に書かれている条文の文言に当てはまれば,その価値判断は強制的に実現されます。
 
法解釈学は,「既に法律があることを前提として社会をよりよいものにするために,法律に書いてある言葉が何を意味するのかを研究するもの」です。
法解釈学は,その条文がどの範囲の事件までをカバーしているのか,その守備範囲を画定する作業です。そして,解釈は,目の前の事件がその条文の適用を受けるのか受けないのかを「あてはめ」るための前提となる重要な作業です。
 
法学部生は,この法解釈学を主に勉強し,与えられた事例において問題となる条文をあはめて一定の結論を出すという作業*4を日々繰り返しています。
 
 
私が法学部生をやっていた頃,よく友人に「法学部は六法に書いてあることを暗記するの?大変だねぇ。」と言われました(法学部生あるある)。
 
 
先に書いた法解釈学の一応の定義を読んだみなさんは,もちろん答えは分かってくれていると思います。
 
 
答えは「否」です。
 
 
当時の私(3,4年生の頃)は「こんなの(六法)を暗記しても意味ないでしょ。(六法に)書いてあるんだから笑。」とテキトーに返していました(おい)。
法解釈学は,法律に書いてある言葉(条文の文言といいます)が存在することを前提にそれが真に何を意味するのかを考える学問だからです。
 
条文を丸暗記するのではなく,六法を見てその条文の文言と睨めっこをしながら,条文の守備範囲を画定するのが法解釈学です*5
 
 
 
②条文の要件・効果について
 
法解釈学は条文の守備範囲を画定することを研究する学問です。その研究の対象である条文は,「要件」と「効果」*6に分けることができます。
 
「要件」とは,ある条文の効果が発生するために必要な条件*7を指します。
 
「効果」とは,法律が予定している一定の価値判断を指します。効果は,基本的に,権利・義務が発生・変動・消滅するという形であらわれます。
 
第1回の投稿で,法律は国会が強制力を持たせた方がよいと考えた価値判断である旨述べましたが,効果はその価値判断であり,要件はその価値判断の強制力が発動するための条件です。
 
例えば,民法557条1項は,「買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手するまでは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して、契約の解除をすることができる。」と規定していますが,これも要件と効果に分けることができます。
 
[要件]
民法557条1項の要件は,「買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手するまでは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して*8」です。
 
[効果]
民法557条1項の効果は,「(売主又は買主は)契約の解除をすることができる。」です。
 
 
つまり,売買契約において買主が売主に手付を交付している場合に,売主又は買主は,当事者の一方が履行に着手するまでは,手付金分の損失*9をあえて受けて,民法557条1項の「要件」を満たし,契約の解除権をゲットするという「効果」が発生するのです*10
 
 
 
③法解釈の手法について
 
法解釈の手法はいくつかありますが,⑴文理解釈と⑵目的論的解釈が重要です*11
 
文理解釈とは,通常の文法に従った解釈をいいます。
要は,条文に書いていあることそのまま捉えるので,立法府の判断を尊重しているともいえます。ただ,これは条文の文言をそのまま鵜呑みにしているので,解釈の放棄であるとの批判もあり得るところです。
 
目的論的解釈とは,立法目的や制度の意図を考慮した解釈をいいます。
要は,「なぜ」その条文が規定されたのかこれを条文の趣旨といいます)を探求してその条文の趣旨に沿った解釈をするものであるといえます。
 
 
通常,条文解釈は,まず文言解釈を行い,このままでは不当な結論を導いてしまう場合に目的論的解釈がされます*12
 
 
【事件】において,買主であるCさんは,売主であるDさんに交付した手付金を放棄してでも,Dさんとの契約を解除して,新たに乙土地を購入した方が得であると判断したのだと思います*13
 
そこで,「当事者の一方」であるCさんは,既に銀行から甲土地代の支払いにあてるお金を銀行からかりているため,「契約の履行に着手」しているとされて,契約を解除できないのでしょうか(民法557条1項)。ここで,「当事者の一方」・「契約の履行に着手」という条文の文言の守備範囲が問題となります。
 
ここで,文理解釈をすれば,Cさんは「当事者の一方」であり,「契約の履行に着手」したといえてしまいそうです。
 
 
しかし,この結論は不当なような気がするのではないでしょうか。なぜなら,お金を借りているのは解除しようとしているCさんであり,Cさんは,そもそもお金を借りるのに要した費用(銀行までの移動費や,銀行からお金を借りることによって生じた利息など)が無駄になったとしても構わない,そこまでしてでも乙土地を購入した方が得であるとの価値判断をもって,契約を解除したいと考えているからです。また,Dさんは,何ら契約の履行のための準備(甲土地を整備したり,測量したりするなど)をしていないので,Dさんには何ら不足の損害が生じないからです。
 
 
そこで,目的論的解釈をすることになります。
 
民法557条1項がなぜ規定されたのか,つまり,民法557条1項の趣旨は,当事者が履行に着手した場合に,その相手方当事者が手付を放棄して解除をすることを許すと,履行に着手した分の費用が無になってしまうという不測の損害を被ってしまうので,このような事態を防止することにあると考えられます。つまり,履行に着手した側の当事者を保護するために,その相手方の解除権を制限する規定なのです。
 
 
そうであるとすれば,「当事者の一方」とは解除する当事者の相手方」を意味すると解することになります*14
 
 
また,民法557条1項の趣旨を履行に着手した相手方を保護することにあるとすると,他方の当事者の解除権を制限するというためには,客観的にみて,保護に値する程度に履行に着手している必要があるでしょう*15
 
 
④あてはめについて
 
あてはめとは,⑴法律を解釈し,⑵生の事件がその法律の守備範囲に含まれるのか「あてはめ」てみたうえで,⑶結論を出す,ことを指すことは既に述べました
 
このように,「あてはめ」は,常に例外なく,この⑴〜⑶のステップを辿ります。これを,法的三段論法といいます。
 
 
法的三段論法とは,「適用されるべき法規範を大前提、具体的事実を小前提とし、法規範に事実をあてはめて結論を導き出す過程」をいいます*16
 
 
図式的にいうと…
 
 
A=要件(大前提),B=具体的事実(小前提),C=効果(結論),とした場合に
 
「AはCである」と規定する法律に,「BはAである(でない)」という具体的事実をあてはめて
 
「CはBである(でない)」との結論(効果)を導くのです。
 
 
くだらない例えですが,CMで「可愛いは作れる!」と宣伝するものがありました。これを大前提とします。
また,一方で「子どもは可愛い」という具体的事実が現に存在するとします。これを「あてはめ」てみると…
 
「子どもは作れる!」という結論が導き出されます。書いていることは意味不明ですが,これもまた,A=C,B=A ⇒ B=C,というプロセスをしっかり辿っているため,正しい法的三段論法です(棒読み)。
 
 
 
…と,こんな具合で,ある事件に法律を適用して結論を出す場合に,人は無意識のうちに法的三段論法という思考過程を踏んでいます。
 
要は,ある事例が条文の文言(解釈後の守備範囲)に当てはまれば法律を適用することができるので法律に書いてある通りになるという結論がでるし,これに対して,ある事例が条文の文言(解釈後の守備範囲)に当てはまらなければ法律を適用することができないので法律に書いてある通りにはならないという結論がでます。
 
簡単だと思いませんか?法学部生は毎日の授業でこんなことを勉強しているのですね。これだけです。でも,すごく重要なことなので,覚えておいてくださいね(まだ土下座をしている)。
 
 
 
例えば,先の【事件】が「具体的事実」,つまり,小前提です。
 
また,民法557条1項は,「買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手するまでは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して、契約の解除をすることができる。」と規定しています。
これが「適用されるべき法規範」,つまり,大前提です。
 
 
前述した通り,法解釈は法的三段論法のうちの大前提を確定する作業です。大前提については,先の③において,民法557条1項の趣旨に遡ったうえで目的論的解釈をしたので,その守備範囲は画定済みです。
 
 
では,画定された大前提である民法557条1項に,小前提である【事件】をあてはめて,法的三段論法により結論を出してみましょう。
 
まず,「履行に着手」とは「客観的に外部から認識し得るような形で履行行為の一部をなし,又は履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をした場合」を意味します。
【事件】において,Cさんは土地代を用意するために銀行からお金を借りて手元に置いていつでも支払いができるように準備をしています。土地代準備のためにわざわざ銀行にお金を借りに行っているのですから,これは客観的に外部からみて履行の提供をするために欠くことのできない前提行為(履行に着手)にあたるともいえます。
これに対して,外部からCさんの行動を観察してわかることは,単にお金を借りているといことだけで,その目的は客観的にはわからないので*17客観的に外部からみて履行の提供をするために欠くことのできない前提行為(履行に着手)にはあたらないともいえます。
 
 
法解釈により大前提の守備範囲を画定したはずですが,やはり言葉は幅のある概念であるので人の考え方が入り込む余地を残しています。これは,言葉の宿命ですので,仕方がありません*18
 
 
仮に,「履行に着手」にあたるとしても「当事者の一方」とは,「解除する当事者の相手方」を意味する以上,【事件】では履行に着手したCさん自らが解除をするので,Cさんは相手方ではありませんので*19不測の損害を被るとはいえません。Cさんは,手付金分の損失を受けてでも契約を解除して乙土地を購入した方が得であると考えているからです。
 
 
結局,【事件】においては,「当事者の一方が契約の履行に着手するまで」にあたらないので,民法557条1項の適用があり,Cさんが手付を放棄すれば,Cさんは契約を解除することができます。
要するに,大前提である,①買主が売主に手付を交付したこと,②当事者の一方が契約の履行に着手していないこと,③買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還すること,という民法557条1項の要件に,小前提である【事件】の具体的事実があてはまるので,Cには解除権が発生し,これを行使することでDさんとの契約を解除することができるという結論を,法的三段論法により導くことができるのです*20
 
 
 
…いやー,ま〜た長くなってしまいました。ブログって難しいですね(開き直り)。
読ませるブログを書くためには,短かく,かつ,ポイントを突くことが重要であるとわかってはいるのですが。。
今回の内容は,いきなり初学者の方にマスターせよという注文は難しいかもしれませんが,一発でわかる必要はありません。実際,本稿のような内容を理解している法学部生はあまりいないと思います。
私も学部時代に法学入門という授業でこのようなことを学びましたが,サッパリわかりませんでした(おい)。3年生の頃に本を読んでようやく理解した程度です。
私の学部では法学入門という講義の1コマのみであっさりふれられただけでした。本来であれば,3コマくらいかけてじっくり講義すべき超重要事項であると私は考えています。
 
最後まで読んでいただいた方には感謝申し上げます。
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*1:法律学とは,法律を研究対象とする学問ですが,これを大きく2つに分けると,立法学と法解釈学に分けることができます。立法学とは,「社会をよりよくするために,どのような法律をつくるのがよいかを研究するもの」です。第1回で,道徳は国会により法律化される旨を書きましたが,立法学は道徳の中からいくつかの価値判断を選び出し,法律として強制力をもたせるというプロセスをその研究対象としています。立法学は,社会をよりよくするために,どのような価値判断を法律化すべきなのか,選び出した価値判断を適切に法律化するにはどのような手順を踏むべきなのか,を考えるものです。本稿では,立法学については割愛させていただきます。

*2:このように,実際の訴訟事件について裁判所が審理・判断した内容を「裁判例といいます。特に,最高裁判所が下した裁判例のことを判例と呼びます。

*3:強制力については第1回で検討しました。

*4:この作業をするに際して,法的三段論法という手順を踏む必要があるのですが,これについては④で説明します。

*5:条文解釈の手法については③で具体例をあげつつ検討します。

*6:で後述するように,条文を構成する要素である要件と効果は,法的三段論法における大前提にあたります。

*7:なぜ条件ではなく,「要件」という言葉を使うのかというと,「条件」という別の法律用語があるからです。要件は日常用語でいう条件と同じ意味で捉えて差し支えありませんが,実際に勉強を進めていく際に法律用語として使われる条件と混同しないように注意してください。

*8:民法557条1項の要件をさらに細分化すると,①買主が売主に手付を交付したこと,②当事者の一方が契約の履行に着手していないこと,③買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還すること,となります。

*9:売主は倍額を償還するとありますが,すでに手付の交付を受けているので,被る損失は手付金分であることに変わりありません。

*10:民法557条は,なぜ,手付分の代償を払えば解除できるという価値判断を採用したのでしょうか。法律は社会をよりよくするための手段であることは前述しました。もちろん,民法も法律です。そこで,民法は社会をよりよくするために,①人々の公平を図りつつ,②人々の経済活動を活発にさせることを念頭に規定されています。民法557条の根底にある価値判断は,「いったん契約をした以上は,原則としてこれを守らなければならないが,当事者間で手付が交付された場合には,当事者がその契約よりも好条件な契約を見つけたときは,例外的に,解除をし,より好条件の契約を結ぶことができる制度を設けることで,人々がよりよい契約を求めて活発に経済活動をするよう促すこと」にあると考えられます。

*11:他にも解釈手法もいくつかあげておきます。拡大解釈(拡張解釈)・縮小解釈…通俗的には言葉の意味を拡大ないし縮小する解釈/類推解釈…言葉の意味に含まれないものに、類似性を理由として法を適用すること/勿論(もちろん)解釈…小さなものが許されているのだから、より大きなものはもちろん許されている」とか「大きなものが禁止されている以上、より小さなものは当然禁止されている」というような解釈/体系的解釈…法の体系性を参照しつつ解釈するもの。

*12:先に上げた通り,解釈手法には種々の手法がありますが,目的論的解釈をした結果,解釈後の条文の文言が,拡大なり縮小なり,勿論なり体系的なり解釈された場合のいづれかと同様の結果となります。この意味で,目的論的解釈は文理解釈以外のすべての解釈手法とつながるところがあります。目的論的解釈こそが法解釈であるといっても過言ではありません。

*13:CさんがこのままDさんとの契約を無視してしまうと甲土地代を支払うという債務の不履行として,Dさんから代金支払請求と損害賠償請求がされてしまうので,Cさんとしては契約を解除して契約をなかったことにしたいのです

*14:最高最判所昭和40年11月24日大法廷判決民集19巻8号2019頁も同様の解釈をしています。

*15:前掲最高最判所昭和40年11月24日大法廷判決民集19巻8号2019頁は,「履行に着手」の意味するところを「客観的に外部から認識し得るような形で履行行為の一部をなし,又は履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をした場合」であると解釈しています。

*16:法的三段論法は法律を学ぶにあたって,非常に重要な概念であるのでシッカリと覚えてください(土下座)

*17:例えば,Cさんが銀行からお金を借りたのは,娘さんの結婚式の費用を賄うためかもわかりません(イイハナシダナー。

*18:権威ある最高裁判所が示した解釈という同じ基準を使っても,使う人によって結論が異なりうるのです。ここに人の個性や価値観がはっきりあらわれるということが,法律の勉強で一番面白いところであると私は考えています

*19:Cさんの相手方は,いうまでもなくDさんです。仮に,【事件】がDさんが手付金を倍返しすることで契約を解除するというものであったならば,Cさんはまさに相手方にあたります。

*20:なお,法解釈の対象のほとんどが要件解釈ですが,効果も解釈の対象になります。例えば,解除の効果についても争いがあります。

法学入門の「にゅ」(第2回:「憲法」~改憲の是非について考えるための基礎として~)

 
こんにちは。私です。
 
今回は憲法*1について書いていきたいと思います。
第二次阿倍内閣が発足し,安倍総理憲法改正改憲)に意欲をみせています。各メディアも憲法について取り上げる日々が続いており,憲法は今,世間の注目を集めています。
 
今日は,そんなホットイシューでもある,憲法について書いていきたいと思います。まず,憲法の存在意義について書き,次に,少しだけですが,改憲の是非について書いていこうと思います。
 
 
例によって憲法とは何者なのか*2,という根本的な問いから始めたいと思います。
 
 
一言でいえば,憲法とは,「基本的人権を保障すること,および,国家権力の暴走を食い止める対策,について定めている日本の最高法規です。
 
最高法規とは,憲法に違反する国家の行為は無効となること,つまり,憲法の内容と国家の行為が抵触した場合には憲法が優先し,その抵触する限度で国家の行為は無効となること,を意味します*3
 
 
では,なぜ憲法基本的人権の保障と国家権力の暴走の阻止について定め,これを最高法規として宣言しているのでしょうか*4
 
これについて考えていくためには,歴史を遡ってみる必要があります。その際には,血と汗(と涙!?)の世界を避けて通ることはできません。
 
 
時は,中世といわれた時代まで遡ります*5。この時代の多くの国では,国会というものが存在せず,国王1人で法律を定めることができるという恐ろしい時代がありました。これを絶対君主制といいます。もちろん,このような時代には憲法というものは存在しませんでした。
国王1人の価値判断を法律化することで,たとえ国民全員が反対していたとしても,その価値判断を強制できるという時代があったのです。
 
これを図式化すると…
 
 
 
国王
 
------越えられない壁------
 
法律
 
------越えられない壁------
 
国民
 
 
となります(某掲示板みたいに上手く書けませんでした…)。
国王は,自分1人で法律を定めることができ,自分の思いのままに国民を支配し,虐げることすら可能でした。しかも,国王には法律の適用はありませんでした。
現に,歴史的にみても,国王が圧倒的な権力を濫用し,国民が虐げられていた時代がありました。国王に権力が集中していたのです。
 
私は歴史に詳しくないので,適切な例は出せません(おい)。
そこで,漫画ONE PIECE*6を例に説明したいと思います。
ONE PIECEに,ワポルというキャラクターがいます。ワポルは,ドラム王国の王様でした。ドラム王国は,絶対君主制を採ってる国です。故に,ワポルには,立法権司法権行政権のすべての国家権力が集中しており,彼は,彼の欲望のおもむくままに,好き放題に国家権力を行使し,国民を虐げていました。
 
 
ONE PIECEでは,主人公ルフィが,仲間のナミとサンジが病気・怪我で動けなくなってしまったため,2人を背負って医者まで運ぼうとしていたシーンがあります*7。ワポルはこれを邪魔しようと話しかけるのですが,ルフィは耳も傾けすらせず,ズカズカと進んで行きます。それに怒ったワポルは,その場で
 
「おおそうだいい法律を思いついたぞ チェス(注:ワポルの部下)!書き留めろ!『王を無視した人惨殺』」
 
と言って,立法権を行使して法律を作りました。そして,その直後,ワポルは
 
「1番ムシしてやがるその病人とケガ人(ナミとサンジ)から殺してやれ*8 お前達っ!!!(注:ワポルの部下)*9
 
と言って,司法権行政権も行使しています。
 
 
...こんな具合で,ワポルは,ルフィ達が気に入らないという単なるワガママな理由から,漫画の見開き1ページという一瞬の間に(!),国家権力のすべて(立法権行政権司法権三権)を行使しています。 
 
 
このように,国王に国家権力が集中してしまうと,権力は暴走し,国民が虐げられてしまうおそれがあります(適切な例を出せずごめんなさい。まだ土下座をしている)。
そして,現実世界でも,ワポルのように権力を濫用していた国王がいたのも事実です。
 
 
そんな中世の時代のあたりから,現在では憲法と言われているものの萌芽がみられはじめます。
このあたりから,ルソーや,ジョン・ロックモンテスキューなどといった啓蒙思想家たちが登場します。彼らは,自然権という概念を提唱します。
自然権とは,人は生まれながらにして,生命・身体・財産を侵されない,という概念です。そして,啓蒙思想家たちは,自然権は,国王によっても侵すことができないと言うのです。自然権は,後に基本的人権と言われるものの基となった概念です。
 
 
また,国家権力が国王1人に集中するから権力が暴走するのだ,として,三権分立とうシステムを考案しました。
三権分立とは,国家権力を分散させ,これを異なる機関に帰属させることで,互いが互いを牽制するようにする国家権力の仕組みのこと,をいいます。具体的には,立法権を国会に,行政権を内閣に,司法権を裁判所に,それぞれ与え,かつ,三者同士で互いが互いを牽制し合うような仕組みを設けています。これによって,三権が互いをチェックし合い,権力の暴走が阻止されます。
 
 
さらに,国王も国民であり,国民の民意を代表する機関にすぎないのだから,等しく法律の適用を受けるべきだとも考えられるようになりました。
これを図式化すると…
 
 
 
 
----------越えられない壁----------
 
 
----------越えられない壁----------
 
法律
 
----------越えられない壁----------
 
国民(国王も含む)
 
 
 
といった具合です。
この啓蒙思想家たちの考え方が,当時虐げられていた国民に広がり,国民は「俺たちは自由なんだ!国王も含めてみんな平等なんだ!」と思うようになりました。
そして,ついに国民の不満が爆発し,国家がひっくり返るという歴史的大事件が起こります。
これがフランス革命です。
 
フランス革命の後には,フランス人権宣言がされます。
ここでは,基本的人権三権分立を保障することで,二度と国家権力の暴走によって国民が虐げられないようにしました。
これを契機に,世界では憲法が定められるようになりました*12
 
 
このように,歴史の教訓から人は学び,憲法を作りました。
既に述べたように,憲法は,基本的人権の保障と国家権力の暴走を食い止める対策を定めています。
自然権をさらに具体化したものが基本的人権です。
また,国家権力の暴走を食い止める対策として,三権分立をさらに緻密化しています。これを,統治機構といいます。
 
 
ここまでみてきて分かった方もいらっしゃるかと思いますが,憲法の究極的な目標は基本的人権の保障にあり,統治機構はこの目標を達成するための手段です
統治機構は,国家権力の暴走を阻止して基本的人権の保障を実質化するために,国家権力の在り方を緻密化し,権力に足枷をかけています。
 
このように,憲法として,基本的人権と統治機構を定めることを,立憲主義といいます。立憲主義は,歴史的に虐げられていたが故に国家権力に対して懐疑的であった国民が,基本的人権を守るために設定した監視カメラといえるでしょう。
立憲主義は,国民が国家権力に虐げられまいと,長い歴史を経て,人類が確立した知恵です。立憲主義について定めたことは,憲法の「歴史的な意義」です。
 
 
 
そして,当然ですが,日本も立憲主義の国です。
第二次安倍政権は,憲法改正に意欲をみせています。
そんな時の与党である自民党憲法改正案では,いくつもの条文が改正の対象となっていますが,安倍総理は,まずは憲法96条1項の改正を意図しているようです。
 
 
憲法96条1項は,「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」と規定しています。
つまり,憲法改正の手続要件について定めているのです。
 
 
安倍総理は,この前段部分を,各議院の2/3以上から1/2以上にしようとしています。
そして,その謳い文句として,安倍総理は「憲法を国民のみなさんの手に!」と言っておられます。
 
 
今回の記事を読んでいただいている皆さんには違和感を感じていただきたいのですが,憲法は,国民が,国家権力の暴走を阻止するために用意した監視カメラです。
そんな監視の対象であるはずの国家権力の担い手たる政府が,「憲法は国民のものだから返すね」といって,監視カメラを取り外そうとしているように見えます。
もともと国家権力に虐げられ,国家権力を信用していないからこそ,国民が憲法を作ったのでした。そんな憲法を変えようとする政権は「暴走しかけているな...」警戒するのが普通だと思います。私には,安倍政権は,憲法が邪魔だから改正しようとしているように見えます。
もちろん,政権が憲法は邪魔だと思っているといことは,憲法が監視カメラとして国家権力が暴走することを阻止するために機能してるという証でもあります。
 
 
少なくとも,私にはそう見えてしまいます。私は,自民党憲法改正案に,全面的ではないにしろ,基本的には反対の立場なのですが,反対だからそのように映ってしまっているだけなのでしょうか?これは記事を読んでいただいた皆さんにも是非考えていただきたい問題です。
 
 
また,私は,自民党憲法改正案のうち,憲法96条1項についての改正案には大反対です。なぜなら,憲法96条は,統治機構の重要部分のうちの1つであり,憲法改正要件を緩やかに変えるといことは,憲法の最高法規性を危うくするからです。
 
最高法規性とは,憲法に違反する法律などは無効となることであるということは既に述べました。この最高法規性は,憲法の改正要件が,法律の作成要件よりも厳しいからこそ,保たれているものです*13
つまり,仮に,憲法の改正要件と法律の作成要件が同じだった場合*14,国会は憲法違反の法律を作ると同時に憲法を「その法律に沿うように改正できてしまう」のです。すると結局,憲法違反となるはずの法律が,憲法に反しないこととなり,無効となることはありません。
これでは,立法権の担い手である国会の暴走を阻止できず,憲法の「歴史的な意義」が没却されるばかりでなく,少数派の人達を民主主義≒絶対主義から守るという憲法の「現代的な意義」が没却されてしまいます。
少数派の人達は,多数派の人達に虐げられる危険に常に曝されてしまうことになるのです。これは非常に危険です。
 
現在の法律の作成要件は,原則として,衆参それぞれ*15の1/2以上の賛成です*16
現在の憲法の要件は衆参それぞれ2/3以上の賛成多数(法律のときとは異なり衆議院の優越はありません),かつ,国民の1/2以上の賛成多数*17です。
したがって,現在は,憲法の改正要件が,法律の作成要件よりもとても厳しくなるようにできています。
 
しかし,自民党憲法96条改正案では,衆参それぞれ1/2以上の賛成多数かつ国民の1/2以上の賛成多数で憲法が改正されることとなります。
それでも,緩やかになったとはいえ,憲法の改正要件の方が,法律の作成要件よりも厳しくなってはいます。
 
 
じゃあいいんでないの?と思う人もおられるでしょう。しかし,ねじれ国会でない場合は,時の与党の憲法改正案は国会は通過しパスできるでしょう。そして,その時の与党を選挙で選出したのは国民ですから,国民の多数派は,憲法改正案に賛成する人が多いでしょう。
すると,実質的に,自民党憲法96条改正案は,憲法の改正要件と法律の改正要件を同じにするもといえます
 
このように,自民党憲法96条改正案は,憲法の最高法規性を危うくする危険性をもっています。
この意味で,私は,少なくとも,自民党憲法改正案のうち,憲法96条1項についての改正案には大反対です。
 
 
 
 
…う〜ん。。前回にも増して長い記事を書いてしまいました(猛省)。。最後まで読んでくだすった方はいらっしゃるのだろうか…(滝汗)。
最後まで読んでいただいた皆さんには感謝申し上げます。そして,1人でも多く人が,改憲に賛成・反対問わず,もう一歩踏み込んで考えていただけるのであれば,幸いです。
 
次回は,再び法律一般(法学部生はどのようなことを勉強しているのか)について書きたいと思います。
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*1:正式名称は「日本国憲法」といいます。

*2:一般的な憲法の教科書では,はじめに,憲法には形式的意義の憲法・実質的意義の憲法…etc. と憲法の分類を示すのが通例ですが,この辺りは今回の連載の趣旨に合わないため割愛致します。

*3:例えば,前回既に述べましたが,国会の賛成多数によって成立した法律が少数者の基本的人権を侵害する場合,その法律はその限りで無効となります。また,内閣(行政権)・裁判所(司法権)のした行為が憲法に反するときも,同様に無効となります。憲法98条1項は,「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」として,このことを明らかにしています。

*4:この答えのヒントは,前回の記事の最後にちょっことだけ書きました。国会の賛成多数によって「みんなで決めた」ものとみなされることで価値判断(道徳)は法律化し,少数派の人達も含めて国民全員がその価値判断に強制されるのでした。ただ,前回は,なぜ,民主主義は絶対主義なのか,すなわち,少数派の人達は反対しているのに,多数派の人達の賛成によって「みんなで決めた」とみなされるのか,その理由については述べていません。その理由とは,本来であれば,国民全員一致の賛成によって法律が成立することが理想なのですが,これは不可能だからと考えられています(例えば,消費税増税法案について考えると,増税について賛成する人もいれば,反対する人もいることを想像してください。)。いわば,民主主義は次善の策なのです。ですから,多数派の人は,多数派の人達の価値判断を,少数派の人達を虐げてでまでも強制することが可能となってしまいます。これは非常におそろしいことです。そこで,民主主義の代償として,少数派の人達の「個人としての尊厳」を守るため,たとえ多数派の人達ですら少数派の人達を虐げることができないという絶対的な領域を設定し,これを保護することとしたのです。この絶対的な保護領域について規定しているのが,憲法における基本的人権についての規定です(もしろん,多数派の人達にも基本的人権は保障されています)。これは憲法「現代的な意義」であるといえます。憲法「歴史的な意義」については後述します。

*5:私は歴史の知識がありません。悪しからず(土下座)

*6:尾田栄一郎著の,ひとつなぎの大秘宝(ONE PIECE)をめぐる海洋冒険ロマンである(ど〜ん)。

*7:ONE PIECE16巻138話「頂上」参照。

*8:これは,ナミとサンジが法律に違反しているか,すなわち,ナミとサンジがワポルを無視しているかどうかを判断する権力の行使であるから,司法権の行使にあたります。

*9:これは,ワポルが司法権を行使し,ナミとサンジは惨殺と判断したため,その「執行を」部下に命じているといえるから,行政権の行使にあたります。

*10:前述のように,この2つは,後の憲法の内容の基礎となるものです。

*11:三権も法律の縛りを受けます。

*12:ただ,憲法が作られたから直ぐに皆ハッピーになれたかというとそうではなく,ブルジョワジーの台頭・夜警国家から福祉国家へ,という流れを経て現在に至ることとなります。もちろん現在の国家体制で皆ハッピーかといえばそうではなく,この先は私達が考えていかなければならない重大な課題です。私達もまた,歴史の中にいるのです。

*13:このように,改憲要件が立法要件よりも厳しい憲法を「硬性憲法」といいます。

*14:このように,改憲要件と立法要件が同じである憲法を「軟性憲法」といいます。

*15:定足数については,大事なのですが,省略します。

*16:憲法59条1項は,「法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。」と,憲法56条2項は,「両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。」と規定しています。なお,衆議院の優越というものもあります(憲法59条2項参照)。

*17:国民投票法規定があります。

【まったり連投開始】法学入門の「にゅ」(第1回:「法律一般①」~法律とは何者なのか~)

 
今回からは,法律について連投していきたいと思います。
一応,法律一般主要な5つの法律憲法民法民事訴訟法,刑法,刑事訴訟法)について簡単に書いていく予定です。
 
 
今回は,法律一般についてです。
 
…と,その前に,どうしてこのような記事を書くかというと,一言でいえば,多くの人に法律を知って欲しいからです。
もちろん,私の連投で法律のすべてを語ろうというつもりは毛頭ありません(し,私にそのような能力はありません)。ただ,公務員試験や行政書士試験などの受験を考えている人が,各法律の全体像を掴めるような内容には仕上げたいと思っております。
私のこの連載のコンセプトは,以下のようなものです。
法学入門・◯◯法入門という趣旨の書籍は,著名な学者の先生が多く出版なさっています。もっとも,大先生方は頭が良すぎるので,「入門」といっても,やはり噛み砕いて説明しきれず,当然のものとして何の断りもなく通過してしまっている事項が多いものと思われます。そこで,私は,一般的な「入門」書においてですら言語化されず,当然視されている事項をできる限り言語化し,(おもしろおかしく)説明していくよう心がけたいと思います。法学入門の「にゅ」と題しているのは,そういう趣旨です。
私なんぞの記事を読んでくれた人が,法律に興味をもっていただき,さらには独学で法律を学んでくれる,そんな方が1人でもいてくだされば幸いです*1
 
 
 
では,本題に入っていこうと思います(枕が長い)。
 
 
 
「法律とは何者なのか」説明してください,と聞かれても,ぶっちゃけた話,私にはわかりません(おい)。このような抽象的な問いは,往々にして難しいのです(滝汗)。
 
 
ただ,私なりにですが,一言でいってしまえば,
法律とは,「強制力をもった道徳」である
といえると思います。
 
 
ここで,強制力とは,国家(裁判所)によって,「法律が予定している状態」が強制的に実現されうる,ということを意味します。通常の国民の合理的な判断からすれば,どうせ法律に書いてある状態が現実になってしまうのなら法律に従った方がいいな,と判断をするので,(間接的にですが)法律が予定している状態が強制されるのです*2。仮に,法律に抗うと,結局,国家によって,直接,法律が予定している状態が強制されます。
このように,法律は,人の行動の判断基準となるものであり,かつ,国家(裁判所)の判断基準にもなります。
法律は,国家(裁判所)の判断基準になるからこそ強制力があるのです。
 
 
一方で,道徳も,人の良心に訴えかけることで人の行動の判断基準の一つとなります。
しかし,道徳には,法律のような強制力はありません。つまり,道徳は,国家(裁判所)の判断基準にならないため,強制的に「道徳が想定する状況」が国家(裁判所)によって実現されることはありません。
なぜなら,「道徳が想定する状況」といっても,人の価値判断は人の数だけあり,道徳は明らかな基準を提供してくれないからです。国家(裁判所)の裁判官が自己の信じる道徳(価値判断)に従って判断をし,これを強制させてしまうと,裁判官がどのような道徳(価値判断)を持っているかによって判断が分かれてしまいます。これでは国民はたまったものではありません。
そこで,憲法76条3項は,「すべて裁判官は、…(中略)…この憲法及び法律にのみ拘束される。」と規定しています*3*4
 
つまり,道徳は人の判断基準にはなりますが,国家(裁判所)の判断基準にはなりません。これに対して,法律は,人の行動の判断基準にもなるし,国家(裁判所)の判断基準にもなります。それ故に,法律は強制力を有するのです。
 
 
そこで国家(国会)は,社会をよりよくするために,全国民を代表して,道徳という価値判断の中から,強制的に実現した方がよいと考えるもののいくつかを,法律という文章をもって明らかにします。国会によって,道徳は法律化されるのです。
 
 例えばですが,
 
【状況】
今あなたが電車に乗って優先席の前辺りで立っているとします。あなたの横には杖をついたお婆さんが立っています。その前には若者が優先席に座っています。電車は混雑しており座席はすべて埋まっています。
 
【問い】
あなたは,若者に「お婆さんに席を譲るべきだ」と注意しますか?
 
 
…どうでしょうか。
もしかしたら,大多数の人は注意すべきであると考えるかもしれません。
ちなみに,私は注意すべきであるとは思いません(おい)。なぜなら,その若者は,重い病気から,先日退院したばかりで,実は長時間立っていられる状態にないかもしれないからです(本当は私が注意をするのにビビっているからです。お婆さんごめんね)。
このように,人の価値判断は人の数だけあり,道徳は明確な判断基準を提供してくれません。
 
したがって,その若者が実際に席を譲らなかったとしても,席を譲れと強制されることはありません。道徳には法律のような強制力はないからです(周囲の人間の批判的な眼を向けられるという可能性はあります。それを気にして若者が席を譲ったとすれば,それはその若者が自己の道徳に従ったことに他なりません)。
 
ここで仮に,「電車等公共交通機関の優先席に関する法律」なるものがあり,先の【状況】の若者の立場にあるような者は,お婆さんに席を譲るべきであると定め,これに違反したときは犯罪として罰金が課される,とします。
すると若者は,罰金が嫌で,お婆さんに席を譲るでしょう(お婆さん,よかったね)。
これは,「法律が予定してる状況」(=若者はお婆さんに席を譲り,お婆さんが席に座るっている状況)という価値判断があり,これが法律により強制的実現されたということができます。国会が,先の【状況】にある若者はお婆さんに席を譲るべきだ,という価値判断を道徳の中から選び取って法律化したのです。
 
 
…こんな具合で,道徳とういう特定の価値判断は法律化され,その価値判断は強制されます(正確には,国家(裁判所)によって,強制的に実現されうるのだから,従うことになるということです)。
実際に,刑法199条は,「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」と定めることで,人を殺してはならないとう価値判断を強制的に実現しています(人は,刑罰を課されてしまうから,人を殺さない方がいいだろうと判断するでしょう)。
また,民法555条は,「売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。」と定めることで,「売買契約をしたら,売主は買主に物を引き渡し、買主は売主に代金を支払うべきだ」という価値判断を強制的に実現しています(買主は,代金を支払わなければ売主が裁判所に訴えることで,結局,売主から代金を取られてしまいます。そうであるなら,訴えられる前に,約束通り代金を払おうと考えるでしょう)。
 
 
ここまでをまとめると,法律とは,「社会をよりよくするために,国会によって道徳から選び出された強制力のある価値判断」である,ということができます*5*6
 
 
 
では,なぜ法律には強制力があるのでしょうか。
法律は,道徳という特定の価値判断に強制力を与えたもであるということは既に説明しましたが,「そんな価値判断は反対だ!」という人も当然いるでしょう*7。しかし,法律は,国内にいる者全員に,否が応でも適用され,強制力をもっています。
 
なぜ法律には強制力があるのか。この答えは,法律は国民みんなで決められたものだからです。「みんなが決めたことはみんなで守れ」ということですね。これを民主主義といいます。
実際は,選挙により選出された国会議員で構成される国会が,多数決で法律の内容を決定します。多数決ですから,少数派の人が反対しても,法律が成立し,少数派の人も多数派が決定した価値判断に強制されます。
たとえ反対する人がいたとしても,賛成多数で可決された法律案は,「みんなで決めた」ものと扱われ,法律となるのです。民主主義とは,いわば絶対主義を意味するのです。
それでは,多数派であれば,たとえ少数派の人を虐げてでも,価値判断を法律化して強制することができるのでしょうか。
 
 
答えは,「否」です。
 
 
憲法98条1項は,「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律…(中略)…の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定め,法律の内容に限界を設けているからです。
憲法は,人権などについて定めていますが,たとえ多数派であっても,人権を侵害するような内容の法律を定めることはできないのです。
このように,人権には,法律の内容を否定するような強力な力があります。人権には,民主主義をひっくり返す強大な力を秘めているのです。
 
次回は,憲法について書いていきたいと思います。
 
 
…いやー長くなってしまいました。こんな長い記事は嫌われてしまうのだろうなぁ(詠嘆)。最後まで読んで頂いた人には感謝申しあげます。
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*1:念のため注記いたしますと,私は記事を書くにあたって入念にウラをとっている訳ではございませんので,内容に誤りもあるかと思います。そのあたりはご容赦願います。

*2:法律に抗うと裁判にお金がかかったり,下手をすると刑罰を課されるおそれがあるからです。

*3:今回は,あえて憲法76条3項に中略を設けました。なぜなら,憲法76条3項から私が省略した部分には「良心に従ひ独立してその職権を行ひ」とあり,なんだ道徳にも従うんじゃないか!,と誤解されてしまいそうだと判断したからです。ここにいう「良心」とは,裁判官という役職に就く者として通常期待されるものを指します。決して各裁判官の自由な道徳心に判決を委ねる趣旨ではありません

*4:一般的な教科書は,憲法76条3項は,司法権・裁判官の独立を定めた条文であると説明しています。「(この憲法及び法律)にのみ拘束される」と書かれているということは,他の国家権力(立法権行政権,上司の裁判官)・他の社会的勢力(マスコミなど)の影響力を受けることなく,中立公正に裁判をすべきことを裁判官に要求していると考えられるからです。私は,各裁判官がそれぞれ自己の道徳心に拘束されて,それに従い裁判をしてしまうと,既に述べたとおり判断がバラバラに分かれ,結局,中立公正な裁判は実現できなくなるため,本文で述べたような憲法76条3項の説明も,一般的な教科書の説明と矛盾するものではなく,元を辿れば同じ考え方に由来するものである,と自分なりには考えています。

*5:ここまで,強制力という言葉を用いてきましたが,ある人が,法律に違反してまででも行動した方が得だと判断することもあるので,強制力には一定の限界があります。ただ,これも法律が,「このように法律に従わない者がいてもよい」というある種の価値判断をしているともいえます。

*6:ここまで,道徳と法律を区別して書いてきましたが,実際その区別はあいまいになっています。例えば,民法1条2項は,「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」と規定しています。ある価値判断を法律化するためには,明確性が必要であることは既に述べましたが,この民法1条2項は,明確な基準を提供しているとはいえません。このいうな条文を「一般条項」といいます。一般条項は法律の不備を補う機能があります。法律は明確性を持っているがゆえに,あらゆる事例をカバーするように規定することができません。そこで一般条項が法律の抜け道を塞ぐのです。このように,一般条項は,個別の明確な条文によってはカバーしきれなかったときにその真価を発揮するものであるため,いわば最後の砦です。これは,法律が道徳を取り込む契機があることを意味しています。一般条項を多用し過ぎてしまうと,裁判官の道徳が強制力を持ってしまうこととなり非常に危険です。

*7:例えば,先の【状況】における私のように,若者にも健康な人もいればそうでない人もおり,お年寄りに席を譲るべきとは一概にはいえないと考える人もいることを想像してみてください。